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ようこそ院長室へ

院長挨拶

院長 堀内 雅之

平成24年4月8日、当院の病棟内で患者間殺人事件が発生し、テレビや新聞でも全国的に報道されました。警察や検察の捜査が行われ、恐らく犯人となった2人は裁判によって審判されるはずです。当院では日頃からリスクマネージメント部会や医療事故防止対策委員会などを活動させ、事故防止の努力や工夫をはかってきましたが、それでも起きてしまった今回の事件は衝撃的で痛恨の出来事です。多くの患者さんやご家族、その他の方々に、色々な心配や不便をおかけしています。法的な問題は別としても、入院中の患者さんが被害者となり、突然望まぬ死に至ったという事実に対する責任や反省はあり、改善すべき施設やシステム、より必要な配慮などについて検討し対応しています。 ただし、想定外の津波に対してどんどん堤防を高くしていくことだけが必ずしも最良の方法ではないのと同様に、患者さんのプライバシーや人権を侵害したり、精神保健福祉法の規定を逸脱するような方法でどんどん厳しく患者さんを管理することは、当院の、青森県の、日本の精神科医療の進むべき方向ではないはずです。事件そのものや色々な批判などによって、職員のこころもそれぞれ痛みを感じております。当院はこれを大きな糧として、全く0にはならないリスクを勇気をもって背負いつつ、リスクマネージメントや事故防止のための団結と連携をいっそう強化し、これからの青森県立精神科病院が歩むべき道をしっかりと見定め、精神科医療の推進につとめていきます。

(平成25年1月)

院長エッセイ

1 うつ病の人が増え、治りにくくなったわけ

うつ病とは、気分(感情)障害の一つで、抑うつ気分や不安、焦燥、精神活動の低下、食欲低下、睡眠障害などを特徴とする疾患で、社会的、職業的生活に支障がみられる程度のうつ状態をいいます。最近では、日本でも、また世界的にみても、うつ病の人が増えていて、しかも治りにくくなってきているといわれます。 うつ病に対する一般の人々の理解が深まって、精神科などの医療機関を比較的気楽に受診し、抗うつ剤などでの治療を受ける人が多くなったという社会的状況の変化も考えられます。また、現代の社会生活でのストレスが強まっていることの影響も否定できません。しかし、精神障害の分類や診断の方法が、原因に基づくものではなく、表面に現れた症状の特徴に基づいて行われるようになったことが、うつ病増多の最大の理由といえます。 従来、精神障害は原因によって分類する方法が主流で、内因性、外因性、心因性に大別され、うつ病は統合失調症と共に、内因性精神障害(原因不明の点が多いが、主に体質的・遺伝的な原因があり、かなり自動的に発病するという意味が含まれる)の代表でした。この分類に基づく診断では、内因性あるいは定型、あるいはメランコリー親和型といわれるもののみがうつ病の範疇に入りました。即ち、従来はかなり重症で、原因が内因性であると考えられるうつ状態の人のみがうつ病とされ、その臨床症状はかなり特徴的で、午前中、特に朝にうつの気分が強い日内変動があり、早朝覚醒や食欲低下、罪業感が強いことが多く、気分反応性に乏しく、表面的な心因などで起こっているわけではないことを示すものでした。しかし、最近はこの分類、診断法よりも、操作的診断であるDSMやICDによる分類、診断法が採用されるになったため、判定困難な内因性に限らず、症状によって、一定以上のうつ状態を呈している場合、うつ病とされるようになりました。非定型うつ病とか新型うつ病、現代型うつ病などということばで説明される、色々なうつ状態がうつ病に含まれるようになったのです。 うつ状態やうつ病を、「こころの風邪」として熱心に普及、啓蒙されてきたことや分類、診断法の影響もあり、一般の人々がうつ病ということばを知り、うつ状態に苦しむ人に門戸を広げたことになったのならば、非常に好ましいことであるといえます。ただし、うつ状態がみられるからといって、皆がうつ病であるとは限りません。現代社会の中でストレスを強く感じる人は多く、また、ストレス耐性に乏しい人も多くなり、抗うつ剤を服用する人の数は劇的に増加していて、「こころの風邪気味」程度のものまでがうつ病とされ、ますますうつ病罹患率が多く見積もられることになるのは、好ましいことなのでしょうか。 うつ病の治療法として、考え方や気持ちのもち方を整理、改善し苦痛を軽くしていく練習(色々な精神療法的治療、認知行動療法など)、種々の薬物療法、周囲の理解や協力体制整備などの環境調整があります。従来の内因性、メランコリー親和性という元来の気質に特徴のある人が多く罹患するうつ病は、心因などに関わらず、かなり自動的に発病してしまう傾向がある反面、自然に良くなる傾向もあり、自殺に注意しながら精神療法や環境調整を行い、薬物療法を工夫することによって高い治癒率が期待されました。しかし、より雑多な原因や要因に影響受けるような色々なタイプのうつ状態やうつ病では、従来の治療ではうまくいかないことも少なくありません。考え方や気持ちのもち方(認知)が大きく偏っている人、不安やストレス耐性が乏しい人などは、苦痛を軽くしていく練習をなかなか上手にできず、薬物療法もあまり有効でない人が多く、また、家庭環境や職場環境なども、従来の日本社会のそれよりも多様化、複雑化、流動化しており、環境調整が困難となりやすいという特徴も、現代のうつ病の難治化、慢性化傾向の一因になっているといえます。 いずれにせよ、うつ病が珍しく稀な病気ではなく、多くの人がかかる可能性のある病気ですので、以上のようなうつ病事情を正しく知っておくことは、医療関係者のみならず、現代人にとって必要なことだといえます。 (初出:青森県医師会報 第566号/平成22年7月)

2 堤防はどれだけ高ければよいのか?

3.11災害以降、「想定外の津波に対する対策が必要である。」という意見があります。 既存の想定を全くは否定しないが、それによって建設されていた堤防などでも想定外の津波被害を防げなかったことから、 このような表現になったと考えられます。もちろん、堤防以外の予報や避難システムなどの整備も必要です。 新しい想定によって、今まで想定外であった津波にも対応できるような、 より高くて頑丈な堤防などを多く建設していく必要もあるでしょう。 しかし、いったいどのような想定外を想定して対策すれば、完全に安心できるのでしょうか。 堤防をどんどん高くすれば良いわけではないことは明白です。 高さや設置場所拡大にも限界があります。そして、それらによっても想定外の出来事はありえ、色々な被害の発生可能性が0になることはありません。極端にいえば、堤防は海からの津波に対しては有効でも、別の意味の想定外の、どこかの国からのミサイル破片被害などは妨げません。完全に対策された核シェルターのような所で国民がみな生活する方法も現実的ではないし、それが日本の未来像だとしたら悲しすぎます。 われわれ個人レベルでも、ほとんどの人は多かれ少なかれ、何らかの責任や義務を負って仕事や家事などをしており、 それぞれの立場で色々な事故をできるだけ起こらないように努力や工夫をする必要があります。 組織経営論ではリスクマネージメントの概念が示されており、当院でも以前から事故防止対策委員会やリスクマネージメント部会が組織され活動しています。 医療現場で働く個人や病院などは法律的にも多くの責任と義務を負っており、倫理的な面でも色々な配慮の義務があります。 特に精神医療にはいっそうの守秘義務への配慮や精神保健福祉法による規定が 加わり、義務の衝突(法律用語)という問題が発生しやすい環境でもあります。 例えば、覚せい剤などによる薬物誘発性障害患者の規制薬物使用時の行動について、 「医師(特に公務員)は覚せい剤所持や使用を知った時点で、無条件にそれを通報すべきである。」という意見から 「殺人などの重大犯罪時でも、患者としての守秘義務を優先すべきである。」という意見まで様々です。 義務の衝突時には公益性のより大きい方を優先すべきである判断基準がありますが、そもそも公益性の程度について、 一般国民のほとんどは納得できる共通の基準をもっていません。 ひとたび事故が起きると、「リスクマネージメントをきっちりやっていれば、事故は起きるはずがない。」とか、「責任ある者は、事故が絶対に起こらないようにする義務がある。 」と主張する人がいます。わたしには「想定外の津波でも被害の出ない堤防」ということばと同様、 人間の思考や感情、行動について単純にしかイメージできない(感情的になった場合など)時に口を出すことばや机上の空論者のスローガンのように聞こえます。一般に、「人は誤りを犯すもので、また事故は起きるものであるが、リスクマネージメントによってその発生確率や悪影響をできるだけ押さえる努力や工夫、システム作りをすべきである。」といわれていて、前記の主張のことばと似ていますが、実は全く違う表現です。やるべきことをやらなかったり、ミスが原因での種々の事故の他に、現実的にどう対策しても発生したのではないかとか、ほとんど防ぎようがないと思われる事故も少なからずあるはずです。 4月8日、当院内で患者間殺人という痛恨の重大事件が発生しました。警察や検察による捜査や調査、検証と共に、当院としての色々な検討(リスクマネージメント、事故防止対策、管理体制、精神保健福祉法に則った精神医療などについて、反省や改善、強化すべきことがあるのならばそれは何か、どのように実際の医療に生かしていくかなどについて)しています。 法律上の責任の有無とは別に、患者が死に至ったという事実に対する責任や反省は大きく、心情的にはリスクマネージメントによる防止対策で事故が絶対起きないようにしたいと(今までもこれからも)思います。 しかし、残念ながら、0にならずに残ったリスクは、勇気をもって背負っていかなければなりません。 また、堤防をどんどん高くすると景色を見る楽しみや日照、交通など多くの面で障害が生じるように、 管理をより厳しくすると患者のプライバシーや自由度はより制限されやすく、許される限界があります。 事故防止と人権尊重は共に重要ですが、その両立は極めて困難な課題です。「アツモノに懲りてナマスを吹く」のなら笑っていられますが、リスク回避のあまり、完全なリスクマネージメントと称する、精神保健福祉法の規定を逸脱した過度な管理や人権侵害は許されません。自傷他害のエピソードがある患者全てに対して厳しい行動制限を行ったり、一般精神科病室の患者から一律少しでも危険な物品を取り上げたり、必要以上に頻繁な見回りや音声、画像での監視によって言動をチェックしたりすることは必ずしも良い方法とはいえず、 日常的にこれを行っていくことはむしろ患者の人権や自由な意志決定(精神科患者にはそれがない、認めないという人は論外) を侵害するものであり、当院の、青森県の、日本の精神医療が進むべき方向ではないはずです。 (初出:青森県医師会報 第589号/平成24年6月)

3 「青森県立こころの医療センター」ってどこにあるの?

昭和50年1月付け「青森県立精神病院の新名称の決定」知事決裁書(写し)には、当時の類似規模都道府県立単科精神病院名称として、 今は懐かしいレトロ調病院名が並んでいます。 例えば、芹香院(神奈川県)、悠久荘(新潟県)、養心荘(静岡県)、県立精神病院(福井県)、光風寮(兵庫県)、静和荘(山口県)、 小川再生院(熊本県)、富養園(宮崎県)、鹿児島保養院(鹿児島県)どで、今では全て名称は変更されていて、 「こころの医療センター」などとなっているところも少なくありません。  別の添付文書には、当時の県環境保健部関係職員からの病院名称応募一覧表があり、素晴らしい発想のものもたくさん含まれており、 全て披露したいと思います。即ち、はまなす苑、道の辺病院、緑風園、みちのく病院、三内病院、甲田病院、うとう病院、光星病院、 楡の木荘、北陵病院、青陵病院、楽生病院、三内楽生園、なつめ病院、おいらせ病院、心和病院、やすらぎ病院、つくし丘病院、 桜ヶ丘病院、自由ヶ丘病院、青森病院、あすなろ病院、新生病院、和光病院、愛光病院、北斗病院、あかしや病院、つくし病院、 清心病院、松ヶ丘病院の30案で、最終的にはつくしヶ丘病院、新和病院、北陵病院、あかしや病院が残り、 初代院長予定者であった後藤先生が「つくしがたくさん生えているので、つくしヶ丘が良いのではないか。」と意見し、 知事決裁前に「ヶ」の表記が「が」に訂正されたそうです。 わたしには、「つくしが丘」以外のそれぞれの名称にも応募者の思いと工夫がこめられていると感じられ、 今からでもその多くに『落選残念感謝状』を送りたいほどです。 当院が今後、県立精神科病院としてより総合的にこころの問題に取り組み、役割を果たしていくことを示すためにも、 「こころの医療センター」とか「精神医療センター」などの名称が妥当であるという意見があり、 わたしも時々そのようなカッコイイ病院名にこころ引かれます。整備計画時にも名称変更は話題となり、 上記の他にも「メンタルヘルス病院はどうか。」などという人もいました。 しかし、「こころ・・」、「・・センター」系の病院やメンタルヘルス科は今ではあちこちにあり、 それらを否定するつもりはありませんが、むしろ今さら追随するのも陳腐に思え、紆余曲折を経て決まったせっかくの病院名 を変更しないことにしました。それでも、メンタルとかセンターが良いという人に対して、わたしは「三内道の辺荘とかアカシア清心病院 もカッコイイ(半分本音)。」と切り返すことにしています。 そういうわけで、当院は当分の間は「青森県立つくしが丘病院」のままで、「青森県立こころの医療センター」は現在のところ、 名称変更について気にかけている人のこころの中しかありません。 (初出:青森県医師会報 第600号/平成25年5月)

4 霊場恐山とイタコの巫業(フギョウ)

人はどのような時代や国、地域に生まれても、社会的地位や貧富の差があっても、一生を通じて常に森羅万象多くの刺激や情報に囲まれて生き、それらと付き合っていかなければならない。刺激や情報の質や量は様々で、それをどうとらえどう対応するかも人それぞれであるが、皆が自分の判断のみでいつも上手に対処できているわけではない。容易に判断しかねることもあり、失敗し後悔もする。色々な局面で迷ったり困ったりし、不安になり、時に病んだりもする。特に、判断するための情報収集や伝達がもっと困難であった昔の時代には、色々な日常生活や集団の規範はもちろん、政治や裁判などでも宗教や巫俗に判断を委ねることが多く、各地にシャーマニズム(shamanism)の社会が展開した。現代は情報収集や処理を迅速に能率よくできる手段が多くあるが、情報をどう認知し対処し利用するかの基準は結局、人が判断して決めるものである。また、賢人達の熟慮の末の決定でも最先端科学の成果でも、それが全ての人を納得させ満足させるわけではない。科学は万能ではなく、それ以外のものに満足や癒し、救いを求める人がいて当然である。 日本のシャーマン(shaman)としての宗教的民間巫者は召命型と修行型に分類され、青森県では前者はカミサマ(津軽地方の一部ではゴミソ)と呼ばれることが多く、ある時突然(ただし、それなりの環境や素質は準備されていたはず)悟りやお告げを感じ、時には幻覚や妄想が出現して、その後予兆判断などの修行に入り巫者となる。後者は青森県では女性であるイタコが主で、何らかの視力障害を有する少女が一定期間師匠の家に住み込んで修行をし、その後独立して巫者として生きていく例が多い。女性巫者即ち巫女(フジョ、ミコ)は、神社ミコと口寄せミコとに大別され(柳田国男)、イタコは後者に属する。恐山でのイタコの仏降ろしの口寄せは有名であるが、かっては下北半島のみならず各所で神降ろしの口寄せ(神遊ばせ、オシラ遊ばせ)や祈祷、占いなど色々な巫業が日常的に行われていて、地域民間信仰の定期的行事として行われるものから、家庭や集団でのレクリエーション的な行事まで、その需要は多岐にわたっていた。 イタコが行うこれらの巫業を彼ら自身は「商売」」と呼び、収入を得て生計を立てているという意味でも妥当である。 仏降ろしの口寄せは、例えば酒びたりの父親に反発し交流を絶ってその死に目にもあわなかった息子が、客として亡父の仏降ろしを依頼した場合、イタコはその事情を簡単に聞き出した後、呪文を唱えたりしながら次第に客の亡父が憑依したようなトランス様状態に入り、その口から「酒ばかり飲んで働かず、お前たちに苦労をかけて申し訳なかった。お前に謝りたかったが会えなかった。葬式に来なかったことは恨んでいない。お父さんのように身を持ち崩さずに、元気で働いて家族を大切にしてくれ。会いにきてくれて嬉しい。ありがたい。」などと口説くわけである。もちろん、口寄せの内容に対する客の反応は様々であるが、基本的には自ら積極的に納得ずくの癒しを求めて来ている客が多く、この相互迎合的で簡易な、いわゆる共感型あるい支持型癒し手法(商売テクニック)を受け入れる。トランスとは、精神医学では意識変容、即ち通常と異なった病的な意識状態をいうが、巫俗ではもっと広い意味での催眠状態や強硬症、エクスタシー(脱魂)などでの人格変換やポゼッション(憑霊、憑依)を呈する状態をさすことばである。仏降ろしの口寄せの商売テクニックとトランス状態の関係は、(1)自己催眠による真のトランス状態に入れない、即ち演技的ともいえる口誦のみで商売するもの、(2)時にトランス状態に入るが、コントロールできないもの、(3)トランス状態と口誦をうまく使いわけることができるもの、に分けられる(堀内)。このような癒しの簡易手法のみでいつも解決するほど人の悩みやこころの問題、ましてや精神疾患は単純なものではないが、口誦のみであれトランス状態を操るものであれ、料金に見合う癒しと納得が得られる程度の責任の範囲では、客は満足し有用と考えるであろう。 イタコで有名な霊場恐山の宇曾利湖はカルデラ湖で、それを外輪山が囲む現在の地形は第四紀までの火山活動で形成された。笹沢魯羊著「下北半島町村誌」によると、慈覚大師が宇曾利湖畔で修行を行い、862年に恐山を開いたという説が有力である。その後、修行の山として寺が建立されていたが、戦乱の余波で1457年頃から一時中絶してしまった。1522年に田名部の円通寺が開かれ、1530年恐山再興、円通寺の管理により次第に信仰の山となり、明治維新までは南部藩領、1871から青森県に属し、現在は青森県むつ市の一部(以前は飛地であった)である。近世になって金や硫黄の採掘や温泉利用も行われ、信仰と共に現世利益の場ともなっていくが、大湊に海軍軍需部があったため下北半島の情報は秘密にされる傾向があり、神秘性を蓄えていた。しかし、昭和30年頃から大祭時のイタコの口寄せのようすがテレビで報道され、その特異さが全国的に有名になり、昭和35年のバス路線開通、昭和43年の国定公園指定により参拝者が増加し急激に観光地化(俗化)した。テレビ放映以前から主に下北地方のイタコによる商売は行われていたが、有名になり大祭時の口寄せ商売が短時間で現金収入となることから、次第に境内にイタコが並ぶイタコマチができ、香具師(ヤシ)が同行する荒稼ぎイタコも出没するようになった。イタコ間でも、イタコと円通寺間でも確執が生じたため、互助的組合があるイタコ組合が発足、世話役が円通寺との交渉、参加料や口寄せ料金、営業時刻の協定や座る場所の抽選を行うようになった。昭和45年頃の記憶では北海道や秋田県、岩手県などから来て商売するものもあり、回答に応じたイタコ40名中下北郡出身者2名、上北郡出身者3名で、他地域から来たものが大半であった。参加料500円を祈祷料として円通寺に納入、口寄せ(仏降ろし)250円、録音100円追加であった。昭和50年の調査では下北半島在住のイタコは6名で、不足分を地元のカミサマや他地域のイタコらが代行、社会福祉の充実により弟子入りする視力障害者は少なく、健康な人が弟子入りすることもあったという。口寄せ料は一口1,000円に急騰、占い相談一口300円、イタコ組合と円通寺の対立でイタコは恐山境内から締め出され、大祭時はレストハウスで、その他はバス会社と契約し薬研のホテルなどで予約制商売をするようになった。昭和の末から平成5年頃にかけて、下北イタコは高齢化し実質的に商売するものはいなくなり、平成5年の大祭では代行イタコ15名が一口3,000円で口寄せ商売をしたが、それも年々少なくなり、平成25年7月の大祭では2名の代行イタコのみが商売をし、口寄せ料は10分間3,000~5,000円であったという。 わたしは弘前大学に入学した昭和51年に初めて恐山を訪ね、昭和62年から平成元年、5年から12年まで一部事務組合下北医療センターむつ総合病院に勤務し、計20回くらい恐山や宇曾利湖周辺に行っている。初回の頃は入場料徴収のしきり(山門)はなく、カラスが鳴き硫黄の臭いがプンブンする荒涼とした岩場を背景に、温泉小屋のそばでやせた老女が全裸で寝そべっていて、捨て置かれた死体と見間違えそうな雰囲気であった。大祭の日ではなかったが。境内の外のあちこちに小屋があり、目隠しのムシロなしで客相手に口寄せしているイタコもいた。口寄せ場面を目の当たりにした感動と同時に、テレビで見たことのある何を言っているのかわからないようなうなり声での恍惚としたようすと違い、比較的聞き取りやすいことばで3分間診療のように次から次に客のリクエストをこなしているのにがっかりした覚えがある。そして、昭和62年にわたしが精神科医として出会った元イタコは、あちこち具合が悪いと訴える心気神経症の老女で、親しくなると共に自らのイタコ人生について「修行が下手で、本当の仏降ろしができなかった(トランス状態になれかった)。師匠は商売ができなくなるほど仏降ろしする(トランス状態になる)人だった。」と語っていた。また、平成5年からは嘱託医として特別養護老人ホームなどに入所している元イタコに出会った。一人は元売れないイタコで、認知症の進行と共に昼夜問わず口寄せ口調で職業せん妄状態を呈し迷惑や苦情が大きく、わたしは、「足りなかった修行を今しているのか」と皮肉を言いつつ、心ならずも(?)ハロペリドール少量でそれを治療してしまった。もう一人は元有名イタコであったが、出現した夜間せん妄は「ヨメが晩メシをまだ食わせない。」とか「メシ食いに家に帰る。」と興奮して徘徊する平凡なものであった。その後、この人たちも亡くなり、平成25年4月の時点でむつ市観光協会等に電話で確認したところ、下北イタコといえる人はおらず、その絶滅(この言葉を不快に感じる人には、ごめんなさい)にわたしは立ち会い、見送らせていただいたといえよう。 【参考文献】 (1)巫俗と他界観の民俗学的研究(高松敬吉、法政大学出版局) (2)霊場恐山と下北の民族(森勇男、北の街社) (3)山と信仰、恐山(宮本袈娑雄・高松敬吉、佼成出版社) (4)津軽のカミサマ(池上良正、どうぶつ社) (5)日本の憑きもの(石塚尊俊、未來社) (6)日本人と宗教(宮田登、岩波書店) (7)図説、民族探訪辞典(大島暁雄ら編、山川出版社) (8)最後のイタコ(松田広子、扶桑社) (初出:青森県医師会報 第605号/平成25年10月)

5 アカシアの・・・

アカシア(アカシヤと表記する人もいる)とはマメ科ネムノキ亜科アカシア属の総称で、細かな黄色の花を咲かせるギンヨウアカシアやフサアカシアなどをさし、これらはモミザアカシアと呼ばれます。関東以北では地植えで育たないため、切り花以外では青森県でほとんど見かけません。関東以南でも、あまり頻繁に見かける花ではないようです。これとは別の、明治時代に輸入されたマメ科マメ亜科ハリエンジュ属のニセアカシア(ハリエンジュ)は当時からアカシアと称され、 野生化して今では日本中に自生し、初夏に匂いの良い白い花(稀にうすピンク)を咲かせ、多くの人がこちらの方をアカシアと呼んでいます。実際、アカシア蜂蜜やアカシア材、北原白秋の「この道」や石原裕次郎が歌った「赤いハンカチ」、西田佐知子が歌った「アカシアの雨がやむとき」、昭和45年に芥川賞を受賞した清岡卓行の「アカシアの大連(ダイレン)」という散文小説の中のアカシア(アカシヤ)は、みなニセアカシアのことです。青森県でも人家周辺から山奥まであちこちで見かけ、5月末から6月にかけて咲く花は芳香を放ち、昭和51年6月の当院開院に先立って行われた名称公募では「あかしや病院」が最終4候補の一つに残っており、当時から青森市三内沢部の地にたくさん生えていたようです。 わたしはどういうわけか、「アカシアの雨がやむとき」のアカシアを、マメ科ネムノキ亜科ネムノキ属のネムノキと勘違いしていました。今でも、違うとわかっていてもネムノキの花を見ると、『アカシアの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい・・・』という頽廃的な歌詞と同時に、文学部受験失敗と我が家の経済的困窮という絶望的な状況で過ごした頃に毎日眺めた隣家の大きなネムノキの記憶がフラッシュバックします。何とか予備校に通わせてもらい、経済的には相変わらず厳しいものの、酒乱の父がほとんど家に寄りつかなくなったため勉強ははかどり浪人生活はけっこう楽しく、何の因果か弘前大学医学部に入学することになりました。そして、弘前で初めてニセアカシアの花を見て、それが世間でいう本物のアカシアだと知りました。 大学での出席番号が後ろのMさんは東工大卒で12歳年長、某都立高校で同級生だった久米宏が当時「ぴったしカンカン」で有名になり始めていて、合コン中にテレビを見ながら「久米君は有名になったなあ」とつぶやいたことから、ずいぶん年長(見た目で丸わかり)で久米宏と同級、昭和19年に軍医の子供として大連で生まれ、その後父母に連れられ命からがら引き上げてきたが、もちろん全く記憶にない、という話題で盛り上がりかけました。ところが、大連ということばに首をかしげる女子大生に、Mさんは「アカシヤの大連、のダーリエン」と優しい口調で説明しました。それがわからなさに屋上屋を架し、当時の芥川賞受賞作の中でも比較的地味な作家と作品は医学部の同級生もあまり知らず沈黙、がっかりしたMさんはいつもの無口な人に戻ってしまい、女の子たちも問題がとけない(問題の意味が分からない)生徒のように戸惑いながらシュンとしており、テレビの久米宏だけがテンション高く声をはりあげていました。救済を求めるような女の子達の目に、説明すべきどうか迷った覚えがありますが、その後のことははっきり覚えていません。この些細なエピソードは、わたしの大学入学初期の思い出として特にアカシアの花の時期に懐かしく想起され、大連にも行ってみたいと思いますが、まだ実現していません。(初出:青森県医師会報 第624号/平成27年5月)

6 雪の北京

結婚4年目の昭和63年、せっかちなわたしに合わせてくれるように、弘前大学精神科人事では6月にすでにわたしのむつ総合病院から翌春の浪岡町立病院(現在の青森市立浪岡病院)赴任が決まっていた。秋頃に妻と「子どものいない2人の今後の生活」について話し合った際、浪岡での一人医長勤務予定もあり、行ける時にできるだけ海外旅行に行こうということになった。ちょうど県内自治体病院に一定期間勤務する者の短期海外(国内)研修制度を紹介されていて、内容は一切かまわず当時は大学からの応援も比較的余裕があったので、さっそく新婚旅行(フランス、スイス、イタリア)時につくったパスポートを捜し出し、昭和64年1月末の台湾縦断ツアーに申し込んだ。急に年号が平成になったものの旅行は順調で楽しく、今度は10年間有効のパスポートにしようと思った。ところが、子供のいない生活が前提の旅行三昧計画の手始めであったのに、妻は諦めず台北のお寺で密かに「最後のお願い」をしたらしく、台湾の神様がそれに応じて数か月後に妊娠が判明、翌年から子どものいる生活となり、海外旅行に行かないと決めたわけではないが、そのまま20年以上パスポートを新たに申請することはなかった。 その後、国内各地には積極的に妻子を連れてまわり、一人っ子長男が学生ながら成人した後の平成23年、ふと見た全国自治体病院協議会雑誌の海外視察研修案内のキューバという文字に引きつけられた。説明書を読むと医療や医師育成のシステムは興味深いもので、「社会主義体制が無理強いしているだけで、国民や医療関者は不満だらけではないのかあやしい、カストロ(フィデル)が生きているうちに行ってみよう。」と申し込み、結局5名(偶然だが、当時のむつ総合病院小川先生とごいっしょ)で平成24年1月催行となった。視察も観光も非常に有意義で楽しく毎晩ラム酒をがぶ飲み、酒をのまないもう一人の医師(沖縄出身、東京の内科開業医)は「青森県の先生は皆さん飲むんですね。」と感想をもらしていた。この時も、定年退職後の積極旅行前倒し練習のはずであったが少しはまってしまい、お互いの足腰の衰えを考えると定年退職まで待てないと考えたわれわれ(といっても、せっかちで脅迫的なわたしがほとんど勝手に決めるだが)は、その後調子に乗ってベトナム(ホーチミンのみの弾丸ツアー)、ベトナム(ハノイ)とカンボジア(アンコールワット)、北欧(ドイツ、スウェーデン、デンマーク)医療視察、ハワイ医療視察と比較的頻繁に出かけている。 平成27年11月末の北京旅行も、6月にハワイから帰ってきてすぐに新聞広告で見つけたもので、時期は悪いが3連休に前日休みをとって参加でき、もっと気候の良い時期に行けないのかという妻の正論を無視して申し込んだ。「休める日程優先、紅葉の万里の長城がいいのだ。」と主張しながらインターネットの北京の天気予報をチェック、2週間前は旅行期間は暖かい週になっていたが、少しずつずれて暖かい週後の寒気と雪の週に入ってしまった。北京についた日は寒い雨で、添乗員も中国人通訳も翌日からの天気の悪さをうすうす感じていてテンション低く、「雨や雪だとPM2.5の影響は少ないので、マスクなしでよいかもしれません。」という説明も言い訳がましい。万里の長城(八達嶺)も天安門広場も紫禁城も数センチの雪で真っ白、地方からの中国人観光客(順番を守れぬ人が多い)で大混雑、日本に比べていろいろな対策が遅く少なめで、万里の長城の坂はツルツルの滑り台で私も妻も久しぶりの臀部打撲、日本ならシステマティックに行われる除雪がなかなか進まず、この程度なら1、2時間だろうと思った帰りの飛行機の遅発は10時間になってしまった。欠航となるよりは良かったものの成田には深夜到着で宿泊、翌朝あわてて直接病院に駆け込むハメになった。 今までの旅行中最悪のさんざんな旅程となったが、帰国した翌日あたりから北京は厳しいPM2.5によいる大気汚染に見舞われているとのニュース、そこそこの観光とありきたりの北京料理を楽しんで無事帰国できたのでマシという要因が加わり、旅の評価は本来よりも2ポイントゲタをはかせる結果となった(雪のタビだけに・・・)。(初出:青森県医師会報 第634号/平成28年3月)

7 妄想主題の時代的変遷

精神医学的な『妄想』とは思考内容の障害で、現実離れした誤った内容でありながら訂正不能の確信に満ちた考えをいい、統合失調症のみならず、認知症などの脳器質性精神障害、精神作用物質による精神障害、躁病やうつ病などの気分(感情)障害などでみられ、健康な人には見られないとされる。その主題によって被害妄想、誇大妄想、微小妄想に大別され、被害妄想には関係妄想、迫害妄想、注察妄想、被毒妄想、憑依妄想、物理的被害妄想など、誇大妄想には血統妄想、宗教妄想、恋愛妄想など、微小妄想には罪業妄想、心気妄想、貧困妄想などがある。 人は妄想をもつに至る過程で、その主題を自らが興味を持つ対象、すなわち強い脅威や不安あるいは憧れや羨望をもつものに求める。特に、統合失調症の発症頻度は時代や地域、人種にほとんど差がないことから、大昔から日本でも外国でもいろいろな妄想をもって人は統合失調症を患っていたといえる。当然、世界中にキリストの生まれ変わりだと主張する人はおり、江戸時代には自称将軍のご落胤が日本国中にいた。おそらく、三内丸山に住んでいた縄文人の中には「自分の栗の実を皆が盗んでいる。」という妄想で眠れなくなり栗の木を全部切り倒してしまう人がいたかもしれないし、中世のパリ社交界には「自分の衣装や髪型が、世界一素晴らしいと噂されている。」と確信し、ますます奇妙な格好で夜会に出ていた貴婦人がいたかもしれない。ただし、人が脅威や不安、憧れや羨望をもつ具体的な対象は、時代や地域によりはやりすたりがあり少しずつ異なってくる。例えば、妄想主題となる対象のうち、梅毒や一般的黴菌、旧式の機械、一部の権威や血統などは下位に移行、放射能や恋愛などは横ばい、新たにエイズや認知症、コンピュータなどの機器、世間を騒がす事件などがその時代ごとに上位となる傾向がある。 わたしが経験した、妄想主題の時代的変遷を感じさせる例を以下に示す。   【例1】 昭和60年頃、東京で放蕩生活を送った末に帰省し「自分はエイズという病気にかかった。」と主張する患者が受診した。当時わたしも上司もエイズに関して「サルからうつる病気らしい。」などと必ずしも正しい知識はなく、とまどう内科医に相談しつつ結局最新のエイズ妄想と診断した。エイズ関連妄想を持つ人は時々いたが、一般的に知られるようになってからはあまりいない。   【例2】 20年以上前から「認知症になった。特効薬を出してくれ。」と要求、少量の抗精神病薬と抗不安薬(最近は抗認知症薬も服用)が効いているのかいないのか、80歳を超えた最近「自分は近所で一番しっかりしていて、あまりボケていないように思う。」と。   【例3】 オウム真理教関連の妄想を持つ人は当時非常に多かったが、最近ではほとんどいない。風で黒いごみ袋が玄関先に飛んできたのを気にして、「夫が務める会社がオウム真理教と関係があり、それを近所の人たちがあてつけている。」と玄関から出られなくなった人、「サリンを背中に噴霧されている。」と言って毎日噴霧器の絵を描いて警察に相談に行く人、埠頭でイカ釣りをしていてふと気づいたら周りがみなオウム真理教信者だと感じ、海に飛び込んでしまった人などがいた。   【例4】 先日さっそくポケモンGOを妄想に取り入れ、「つくしが丘病院の院長室にポケモンがいっぱいいて、院長がかくしている。」という患者がいた。某医師のチェックによると、「当直時に、院長室に希少ポケモンがいたが入れず残念。」だったそうだ。   【例5】 高齢男性、ある安酒場で時々昭和天皇が日本酒を1合おごってくれるという。「わたしにもおごってくれるだろうか。」と言うと、「自分は弟なので・・・」と小声で教えてくれた。この人によると、「同じようなことを言う人は昔(入院中)はたくさんいたが、最近はいない。」とのこと。   (初出:青森県医師会報 第640号/平成28年9月)

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