ようこそ院長室へ
院長ごあいさつ
"癒しの花"と"実のなる木"
院長 堀内 雅之
当院は昭和51年の開院以来、県立精神病院として地域精神医療や精神科救急、措置入院や応急入院指定病院、老人性認知症疾患センターなどの機能を 担ってきました。しかし、近年、日本の社会や生活様式の急激で著しい変化、入院医療中心から地域生活支援などの精神医療の変革に対応するには、特に病棟や 外来の構造や運営システムの面で困難が多くなり、平成19年春から機能拡充と耐震を含めた整備工事が着工されることになりました。医師らマンパワー充足へ の課題も残っていますが、より高度な診断や治療、積極的な協力・連携体制での精神医療の提供を目指します。 精神医療では、ことばや人と人との交流を通じて思考や感情の色々な不調から回復できるように協力する「精神療法」、日常生活のしづらさの改善をは かる「生活療法」、脳の働きの調整・改善に作用する「薬物療法」などを組み合わせて治療します。その過程で「癒されること」も大切で、色々な人付き合いや 趣味、余暇、日常的なちょっとしたこと(例えば、花や木々を見たり、体を動かしたりすること)の中にも材料はたくさんあり、治療を受ける人だけでなく、全 ての人に必要なものです。ただし、複雑な「こころの問題」や精神疾患の治療では、残念ながら一般的な癒しだけでは十分といえず、より合理的で効率の良い専 門的治療法による効果の強化、安定化が重要で、これが効果的に行われるためには、一般医療と同じく建物や医療機器、外来や病棟機能、マンパワーなどの充実 が必要不可欠です。 当院は今後、ユーザーに合わせた色々な"癒しの花"を提供しつづけ、"大木"である病院の建物整備に加え、マンパワーや機能充実によって、"実の なる木"を大切に育て、より高度で安心な精神医療の提供と治療効果の結実を実現させていきたいと考えます。 今後も、ご理解とご協力、ご教示をお願い申し上げます。
院長エッセイ
1 裁判員裁判と精神鑑定
わが国の裁判員制度は、国民の参加により、一般市民がもつ日常感覚や常識を裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解増進と信頼の向上を図ることを目的として導入され、一定の刑事裁判において、国民から事件ごとに選ばれた裁判員が裁判官とともに事実認定(有罪か無罪か)にも量刑判断にも参加し審理する制度です(裁判員の参加する刑事裁判に関する法律=裁判員法、2009年5月21日より施行)。よく似た制度に、陪審員制度や参審員制度があり、前者では陪審員は事実認定を行うのみで、量刑判断は職業裁判官が行い、後者では裁判官と参審員の合議体が事実認定も量刑判断も行いますが、参審員は職能団体等からの推薦で一定の任期をもって選任されます。裁判員裁判の対象となる事件は、具体的には、殺人、強盗致死傷、現住建造物等放火、身代金目的誘拐、危険運転致死、傷害致死、保護責任者遺棄致死などの第一審で、暴力団関係者による事件等は除外されることもあります。有権者(衆議院議員名簿選挙人名簿に登録)からの地方裁判所ごとの候補者名簿作成、事件ごとの裁判員候補抽選をへて、欠格事項者などが除外され、最終的な抽選で裁判員と補充裁判員が選ばれます。公判は原則的に連日開廷される集中審理(多くが数日)、公判前整理手続きが必ず行われ、審理は職業裁判官3、裁判員6の合議体で、事実認定、法令の適用、刑の量定は同等、法令解釈と訴訟手続については裁判官の専権事項、評決は過半数によりますが、必ず裁判官、裁判員1名以上の賛成が必要とされます。
一般に、刑事裁判のための精神鑑定では、刑事責任能力や訴訟能力の有無などが鑑定事項となります。刑法第39条では、「心神喪失者の行為は罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する。」とされており、ここでいう心神喪失者とは、精神障害のために是非善悪をわきまえることができないか、わきまえてもそれに基づいて行動することができない人を、また心神耗弱者とは、これらの能力が著しく低下している人を意味しますが、これはあくまでも法律上の規定で、決定するのは裁判官であり、そのための判断資料が精神鑑定で、鑑定人という資格で意見を述べる(鑑定書を作成する)ことを求められます。裁判員裁判における精神鑑定は原則公判前整理手続の段階で行われ、鑑定書が証拠として採用された場合、その全文が法廷で朗読されますが、端的にいうと「簡にして要を得た鑑定書」、即ち妥当な診断名と的確な主文、これを証明する根拠の理解しやすいことばや文書などでの説明、適切な期間内での作成と提出が望まれます。朗読を聞いただけで、裁判員がその内容を理解できるのが理想ですが、それはほぼ不可能です。そのため、精神医学概念や専門用語集、解説書の準備、鑑定人尋問活用、事前カンファランス活用など工夫がなされています。
最近の日本では、医療観察法や裁判員制度への精神科医の積極的な協力が求められていますが、精神科医なら誰でも鑑定のトレーニングを受けていて妥当な鑑定書を作成できるとは限りません。精神医学では皆が客観的にみることのできる資料が少なく、用語や判断の基準が理解されやすく整理、確立されておらず、他の分野と比べて、客観的に説得力のある明快な結論や説明が困難な場合が多いといえます。また、精神医学の方法や採用する分類、診断基準により診断名がまちまちになりえ、操作的診断基準であるICD分類やDSM分類によっても、診断名が一致しないこともあります。それゆえに、鑑定の内容が理解されにくく、診断名の表現によっては「全く違う(対立する)診断が出た」と誤解され、マスコミが安易で扇情的な報道をしたりすることもあります。
われわれ人間にとって、真実や正義を求めて生きることは素晴らしいことです。しかし、いくら努力しても「藪の中」の全ては見えず、事実が皆完全に解明できるとは限りません。特に裁判や精神医学は、真実の解明を理想としながら、それが実現しにくい領域を扱うものです。裁判の現実的目的は必ずしも「真実の解明」ではありません。また、精神鑑定の目的も「心の闇の解明」ではないのです。誤解し本来の目的から逸脱して、むやみに真実や正義の探求を要求している人や記事をみると、悲しくなります。しかし、裁判員となりうる一般市民が持つ日常感覚や常識とは、色々な理解度や思考、感情を持つ人々のものであることをわきまえつつ、われわれ精神科医はより制度の高い診断と鑑定を目指し、精神医療の分野はもちろん、裁判員裁判、その他の分野にも貢献していきたいものです。
(初出:青森県医師会報 第562号/平成22年3月)
2 わたしの「青い鳥」
~ チルチルとミチルは、夢の中で幸せの青い鳥を求めて過去や未来の国を旅しますが、結局それはみつからず、疲れ果てて家で眠りに入ります。夢から覚めた2人は、自分達がもともと飼っていた鳥籠の中の薄汚れた鳥が、幸せの青い鳥であることに気づくのです。 ~
凡庸のわたしでも、人生について気づいたり学んだりしたことがいくつかあります。そのうちの一つは、「年をとってからでも、やっと気づいたり学んだりしたことを利用すれば、けっこう人生に役立つ」ということで、もう一つは、「もし若い頃それに気づいていたら、もっともっと素晴らしかったのに」ということです。夢や希望といえるほどの夢や希望はどこかで消化され、大人のルールや世間の習わしに対して感じていた反発や不満もいつの間にかこなれて、今まで何とか生きてこれたことを感謝できるようになった反面、「人生は短すぎる」と、気づいたのか、まだ気づいていないのか、人生修行の足りなさが露呈するような嘆息がもれます。
「何とか食っていけるだろう」程度の気持ちで昭和50年代に医学部入学、卒業したわたしは、大学の医局に依存しつつその人事に従うという掟に疑問をもつことなく入局、これが当時の日本中のほとんどの若い医師が選択する道でした。しかし、名義貸し非容認強化、医学博士号の権威低下、新医師研修制度などがきっかけとなって、最近では医師の研修や勤務への動機づけ、人生設計や将来展望のありようが急激に大きく変容しています。以前は、どんな希望や展望を持っていようがいまいが、どこかの大学や大病院に所属して、収入や立場を最低限保証されながら、学位やそれなりのポストを得たり、医師としての生き方を考えていく人が圧倒的に多かったはずです。なぜならば、知的好奇心や勤務意欲、プライドを満たす興味深い症例や経験、それに準ずる勤務先を斡旋する権限をほぼ独占しており、他ではチャンスを得るのは困難で、イバラの道を歩む苦労と不利があると思われたからです。ところが、そうではなく、勤務や生活のための条件が良さそうな情報が得られ、かって絶大であった大学等のプラス面が色あせ、特別な事情がない限り、長期間大学等に所属している必要性を感じない人が多くなったのでしょう。採用時にも、出身大学や学位の有無、経歴が以前ほどとやかくいわれず、勤務先選択の流れは極めて自由で流動的になり、好まない業務などがありそうな所は避けられ、その都度の生活や人生設計に都合がよいと思われる所が選ばれるようになりました。特に、現代の若い医師の多くは、将来のことも柔軟に考えつつ、生活に関する情報を器用に集め、躊躇せず移動していくので、それなりの魅力はあるもののパワーに乏しい地方大学や公的病院の多くは、彼らが本当に魅力と感じるような条件(便利な地理的条件とか、余計な業務や当直が少ないとか、休暇は遠慮なくとれるとか)を提示したくても提示できないので、医師獲得合戦で苦戦するのは必然です。
わたし自身は、大学の教室や公的病院の多くは存在の必要があり、一定の基準以上の医療優先の条件と待遇が保証されていると信じて、今も公務員医師を続けています。しかし、以前より多くの医師が、そうとも思わなくなったり、それを勤務先選択の優先理由としなくなり、別の職場や勤務形態を求めて、青森県や弘前大学、勤務医生活から去っていき、ほとんどの人は戻ってきません。
彼らの追い求めている青い鳥は、その方法でしか見つからないのでしょうか。青森県内で勤務医を続けているわたしの青い鳥と、ちがうものなのでしょうか。
(初出:青森県医師会報 第564号/平成22年5月)
3 うつ病の人が増え、治りにくくなったわけ
うつ病とは、気分(感情)障害の一つで、抑うつ気分や不安、焦燥、精神活動の低下、食欲低下、睡眠障害などを特徴とする疾患で、社会的、職業的生活に支障がみられる程度のうつ状態をいいます。最近では、日本でも、また世界的にみても、うつ病の人が増えていて、しかも治りにくくなってきているといわれます。
うつ病に対する一般の人々の理解が深まって、精神科などの医療機関を比較的気楽に受診し、抗うつ剤などでの治療を受ける人が多くなったという社会的状況の変化も考えられます。また、現代の社会生活でのストレスが強まっていることの影響も否定できません。しかし、精神障害の分類や診断の方法が、原因に基づくものではなく、表面に現れた症状の特徴に基づいて行われるようになったことが、うつ病増多の最大の理由といえます。
従来、精神障害は原因によって分類する方法が主流で、内因性、外因性、心因性に大別され、うつ病は統合失調症と共に、内因性精神障害(原因不明の点が多いが、主に体質的・遺伝的な原因があり、かなり自動的に発病するという意味が含まれる)の代表でした。この分類に基づく診断では、内因性あるいは定型、あるいはメランコリー親和型といわれるもののみがうつ病の範疇に入りました。即ち、従来はかなり重症で、原因が内因性であると考えられるうつ状態の人のみがうつ病とされ、その臨床症状はかなり特徴的で、午前中、特に朝にうつの気分が強い日内変動があり、早朝覚醒や食欲低下、罪業感が強いことが多く、気分反応性に乏しく、表面的な心因などで起こっているわけではないことを示すものでした。しかし、最近はこの分類、診断法よりも、操作的診断であるDSMやICDによる分類、診断法が採用されるになったため、判定困難な内因性に限らず、症状によって、一定以上のうつ状態を呈している場合、うつ病とされるようになりました。非定型うつ病とか新型うつ病、現代型うつ病などということばで説明される、色々なうつ状態がうつ病に含まれるようになったのです。
うつ状態やうつ病を、「こころの風邪」として熱心に普及、啓蒙されてきたことや分類、診断法の影響もあり、一般の人々がうつ病ということばを知り、うつ状態に苦しむ人に門戸を広げたことになったのならば、非常に好ましいことであるといえます。ただし、うつ状態がみられるからといって、皆がうつ病であるとは限りません。現代社会の中でストレスを強く感じる人は多く、また、ストレス耐性に乏しい人も多くなり、抗うつ剤を服用する人の数は劇的に増加していて、「こころの風邪気味」程度のものまでがうつ病とされ、ますますうつ病罹患率が多く見積もられることになるのは、好ましいことなのでしょうか。
うつ病の治療法として、考え方や気持ちのもち方を整理、改善し苦痛を軽くしていく練習(色々な精神療法的治療、認知行動療法など)、種々の薬物療法、周囲の理解や協力体制整備などの環境調整があります。従来の内因性、メランコリー親和性という元来の気質に特徴のある人が多く罹患するうつ病は、心因などに関わらず、かなり自動的に発病してしまう傾向がある反面、自然に良くなる傾向もあり、自殺に注意しながら精神療法や環境調整を行い、薬物療法を工夫することによって高い治癒率が期待されました。しかし、より雑多な原因や要因に影響受けるような色々なタイプのうつ状態やうつ病では、従来の治療ではうまくいかないことも少なくありません。考え方や気持ちのもち方(認知)が大きく偏っている人、不安やストレス耐性が乏しい人などは、苦痛を軽くしていく練習をなかなか上手にできず、薬物療法もあまり有効でない人が多く、また、家庭環境や職場環境なども、従来の日本社会のそれよりも多様化、複雑化、流動化しており、環境調整が困難となりやすいという特徴も、現代のうつ病の難治化、慢性化傾向の一因になっているといえます。
いずれにせよ、うつ病が珍しく稀な病気ではなく、多くの人がかかる可能性のある病気ですので、以上のようなうつ病事情を正しく知っておくことは、医療関係者のみならず、現代人にとって必要なことだといえます。
(初出:青森県医師会報 第566号/平成22年7月)
4 「どうなればいいと思う?」
平成20年1月に八戸市で起きた母子3人殺人事件の仙台高等裁判所での控訴審が、今年7月になってやっと始まった。弁護側からの、控訴趣意書作成に時間がかかることを理由にした、公判延期の申し立てが再三あったからである。結局弁護側は、無期懲役とした一審の青森地方裁判所判決について、「(犯人とされる当時18歳の元少年は)前頭葉てんかんにかかっており、犯行時は周期性不機嫌症の状態にあった」として、責任能力はなかったと無罪を主張し、てんかん専門医による鑑定を求め、3度目の精神鑑定が行われるとが採用された。
もともとのA鑑定(いなかの、普通の、一般的な臨床精神科医による)の主診断は、人格障害を有し、適応障害としての離人状態下での反抗、B鑑定(東京の、臨床も研究も一流と自称する有名医師による)では特定不能の精神病性疾患(てんかん発作を含めた、現在の検査レベルでは特定できない原因による、という意味らしい)での意識障害や幻覚妄想状態下での犯行、とされている。そして、控訴審の弁護側の主張は、その立場として当然であるが、一審で主に採用されたA鑑定の妥当性を否定し、B鑑定の怪しさをうすうす感じつつ、やけくそのこじつけとも思えるようなてんかん発作時の犯行説である。
再鑑定による、てんかんなどの有無を標的とした検査や診断には興味があるが、とうていそれに期待される所見が見出されたり、犯行についてそれで説明できるとは思えない。どの鑑定内容が採用されるか(残念ながら、裁判結果とどの鑑定結果が正しいかとは、現実にはイコールではない。裁判によっても鑑定によっても、いくつかの真実は結局やぶの中に残り、われわれ人間がいくら誠実に努力しても、真実がいくら見えてきたり、知ることができるようになるわけではない。)とか、心神喪失・耗弱などの裁判での判断や量刑の軽重などへの関心よりもむしろ、いなかの、普通の、一般的な臨床精神科であるわたしには、もし心理・社会的治療や再トレーニングの場での処遇が、一刻でも早く彼にとって必要で優先(もともと、弁護側で主張していた)のであるのならば、2年以上たち成人に達した今でののんきに「おれ、どうなればいいと思う?」と他人事のように言っているらしい彼や彼の父たちへの治療や対応はどうなっているのか、これからどうなるのだろうかの方が気になる。「これからどうなればいいと思う?」、「自分でどうすればいいと思う?」と彼自身に問うてみたいが、きっとはかばかしい返答は得られないであろう。
(初出:青森県医師会報 第570号/平成22年11月)
5 予め用意されていた「むつ総合病院精神科診療棟新築を喜ぶ」原稿
永年の念願かなった一部事務組合下北医療センターむつ総合病院メンタルヘルス科の診療棟新築を、素直に喜びたいと思います。むつ下北地域にただ一つしかない精神科診療施設の新築は、患者さんやご家族、職員、地域の医療保健福祉などに携わる人々、地域住民のみならず、われわれ元職員や他の地域で精神医療などに携わる人々にとっても、素晴らしい知らせであり、大いなる希望の光を感じることができます。精神医療には、実はマンパワーと同じくらい建物や施設の環境的要素が重要であるということを考えると、今回の診療棟新築はむつ下北地域精神医療における世紀的一大出来事であるといえます。「精神科診療施設を新しく建て替えてほしい。」という要求の前に、今まで精神障害や疾患をもつ人々やそのご家族の発する要望の声はひ弱でか細く、聞く側もその声に耳をそばだてて聞こうとする姿勢や実行力に乏しい難聴頑固おやじ的であり、なかなか計画が前進、実現しませんでしたが、今回、経済的事情をはじめとする数々の困難が山積していたのにもかかわらず、勇気と実行力をもって奔走された管理者や院長、関係職員、その他の方々に深く感謝申し上げます。今後は、これらの施設にマンパワーの充実が加わり、むつ下北地域のやや遅すぎた精神医療施設の一歩前進が青森県の精神医療の充実と前進にもつながるであろうことを、大いに期待したいと思います。
平成5年春にむつ総合病院精神神経科部長として赴任した30代半ばのわたしは、精神科施設の充実の必要性や新築の要求を、当時の下北医療センター管理者である故杉山むつ市長や中村院長、小川副院長(現院長)らに対して、今にしておもえば未熟で失礼な態度や拙い方法で再三しつこく口にだして表現していました。にもかかわらず、その必要性を認めるようなことを言いつつ、なかなかの計画のケの字も実行されないことに腹を立て、平成10年頃に皮肉と敵意に満ちた「(予め用意されている)病棟新築を喜ぶ」という原稿をむつ総合病院の「おしまこ」という広報誌に投稿しました。案の定、編集長であった小川先生に「今は出せない。」といってたしなめるように突き返されました。当時のわたしは、その原稿の皮肉をいつか、精神科施設がなお建て替わっていない病院、あるいは遅すぎる新築時に再度投げつけてやるつもりで、「おしまこ」に挟んでおいたのです。私が今、小川先生の立場であったら、当然同じような対応するのが最良であると考えます。実際、そうしてくれた小川先生に感謝する気持ちでいっばいです。 なぜなら、そうしてもらえたからこそ、今その原稿をなつかしく読み返し、素直な気持ちでお祝いと喜びのことばに置き換え伝えることができるのですから。
(初出:青森県医師会報 第574号/平成23年3月)
6 『完全責任能力』は、どのくらい完全なのか?
一般に、鑑定とは特別な知識経験を必要とする問題について、専門家が鑑定人として、裁判などで意見を述べたり鑑定書を提出したりすることです。精神鑑定はその一種で、刑事訴訟法の手続きにより、起訴前精神鑑定(被疑者の鑑定を、検察官が嘱託)と公判精神鑑定(被告人の鑑定を、弁護人か検察官の申請で、裁判官が命令)に大別されます。民事事件か刑事事件かによって、民事精神鑑定、刑事精神鑑定と呼ぶことがあります。また、一定期間の入院などによるものを本鑑定、短期間で必要最低限の診察と検査などによるものを簡易鑑定と呼ぶこともあります。精神科医が嘱託される最も多い鑑定は、起訴前の刑事責任能力判断を目的としたものです。その場合、被疑者の犯行時や鑑定時における精神状態(障害や症状の有無、程度、病名など)とその犯行への影響、是非善悪を弁識する能力(事理弁別判断能力)とその弁識に従って行動する能力(自己行動制御能力)などが主な鑑定嘱託事項となり、訴訟能力や治療などに対する意見が求められることもあります。
平成21年からわが国で施行されている裁判員法(裁判員の参加する刑事裁判に関する法律)での裁判員制度は、国民から選ばれた裁判員が審理に参加する制度で、一般人が持つ日常感覚や常識を裁判に反映させ、司法に対する理解増進と信頼向上を目的に導入されました。具体的には殺人、強盗致死傷、現住建造物等放火などの第一審で採用され、暴力団関係者による事件等は除外されることもあります。わが国の裁判員制度は、裁判員が事実認定(有罪か無罪かの認定)にも量刑判断にも参加する方式で、他の国で採用されている陪審員制度や参審員制度とは少し異なります。いずれにせよ、よりいっそう一般人にも理解されやすい鑑定書作成を求められ、反面、公判前整理手続段階での鑑定は時間に制限があり、供述調書や目撃証言などが法廷で吟味されていないことなど、問題点も少なからず指摘されています。
精神障害が人の意思や行動の決定過程にどのように影響するか、判定することはできないとする立場(不可知論)と、できるとする立場(可知論)があり、多くは後者を支持しています。鑑定人は、可知な範囲内でできるだけ積極的に意見を述べるべきですが、鑑定の目的は必ずしも「心の問題」や「心の闇」の解明ではありません。「精神鑑定では、心の問題が解明されていない。」などと安易な批判をする人がいます。センセーショナルな大事件や奇妙な犯行では、それが起きた経緯や理由、犯人とその動機などをはっきり知りたいのは山々ですが、それを明らかにすることは不可能な場合が多く、「心の問題」や「心の闇」の解明は容易にできるものではありません。現実的に好ましい精神鑑定書とは、妥当な診断名と的確な主文、これらを証明する簡にして要を得た(理解しやすいことばや文章での)根拠の説明と資料提示、適切な期間内での作成、提出が備わっているものとされますが、これも容易なことではありません。特に、精神医学は、皆が客観的にみることができる資料の提示が困難であったり、用語や判断の基準が十分に整理、統一されていないので、客観的に説得力のある明快な結論を出し説明することが困難な場合が多く、理解されにくい分野です。精神医学の方法や診断の手順、採用する分野や診断基準により診断名などの表現がまちまちとなり、同じ疾患群を表す診断名にも、「精神鑑定で、違う(反対の)結果が出た。」と大げさな誤解報道がされることもあります。
刑事責任能力が問題となるのは、刑法39条で「心神喪失者の行為は罰しない。心神耗弱者の行為はその刑を軽減する。」とされ、刑法41条で「14歳に満たない者の行為は罰しない。」とされているからです。心神喪失者とは、精神障害などのために是非善悪をわきまえることができないか、わきまえてもそれに基づいて行動制御できない人を、心神耗弱者とは、これらの能力が著しく低下している人を意味します。個別の事件に至った行為について、事理弁別判断能力や自己行動制御能力が問われ、完全責任能力、限定責任能力、責任無能力のいずれかという法的判断を裁判官は下しますが、そのための資料を提供するのが精神鑑定の役割です。それでは、完全責任能力を有する人とはどのような人をいうのでしょうか。文字どおりなら、“完全”なのですから、十分に自己が置かれている状況を把握、検討して判断する能力をそなえ、かつ、その能力に従って完璧に自己の行動をコントロールできる、極めて優秀で高潔、強勒な人ということになり、これならば、ほとんどの人が“不完全”責任能力となってしまいます。また、平均より判断能力などが優れている人のみをさすわけでもありません。実際は、一定以上の程度の能力をもつ多くの人をさすことばで、“完全”ということばのイメージとはかなりかけ離れていて、責任無能力、限定責任能力の状態を呈する人を除いた全てといえます。
14歳未満者や未成年者、精神障害者への過度の免責は、本人のためにも、他の少年や精神障害者、その他の人々のためにも好ましくないとわたしは思います。例えば、刑法41条は、「14歳に満たない者の行為は罰しない。」ではなく、「~罰しないこともある。」とすべきでしょう。また、刑務所などでの矯正や治療体制、精神科治療に不満を持っているとしても、精神障害者や少年の責任能力を過度に低く見立て、心神耗弱や心神喪失を広くとり(完全責任能力を完全視し過ぎ?)、何でもかんでも起訴反対、受刑反対する人は、保護処分や成長への期待し過ぎなのか、入院や刑務所処遇などを否定しすぎなのか、いったい何を目論んでいるのでしょうか。
(初出:青森県医師会報 第578号/平成23年7月)
7 新医師臨床研修制度の賜物
平成16年度から始まった新医師臨床研修制度(以下、新制度)は、戦後の日本での医師研修制度としては、実地修練制度(いわゆるインターン制度で、医師国家試験受給資格を得るための義務として、卒業後1年以上の診療及び公衆衛生に関する実地修練を行うとされた)、その後のいわゆる自由臨床研修制度(卒業直後に医師国家試験を受験、医師免許取得後2年以上の臨床研修を行うよう努めるという努力規定)に次ぐ大改革です。
従来の自由臨床研修制度では、多くの研修医は出身大学(医局)関連の単一診療科などでのストレート方式による研修を受け、幅広い診療能力を身につけることができるとされる総合診療方式(スーパーローテイト)による研修を受ける人はあまりいませんでした。しかし、医療や医学の高度化や一般化に伴って、より高く広い知識や診療技術がますます医師に求められるようになり、新制度では、地域医療と接点が少ない専門の診療科に偏ったものではなく、いわゆるプライマリーケアの基礎的診療能力を身につけることを理念とし、研修に専念できる環境と処遇のもと、2年間で色々な診療科や施設などで多くの疾患治療や検査などを経験するように義務づけられ、精神科での研修も当初は必須科目の一つでした。
要するに、「医師たる者は全て、将来専門とする診療科以外の分野であっても、ある程度みることができるようになりなさい。」ということでしょうが、建て前や机上の考えで言うほど簡単なことではありません。しかし、日本の現代社会では、専門的(高度?)医療が時に必要な反面、プライマリーケア診療へのニーズは極めて高く、専門科以外の診療知識や技術が必要な場合が多いのも事実です。精神科医の立場からみても、精神科医以外のほとんどの臨床医師も不安やストレス関連の疾患や問題、うつ状態や認知症傾向を有する患者に遭遇し、色々な合併症をもつ統合失調症や気分障害、認知症、アルコール依存証、人格(パーソナリティ)障害などの患者の対応についても、精神科医や特別な立場の医師ばかりが担う時代ではなくなっていると感じます。新制度によって、専門科にかかわらず、精神疾患や障害についてより高い理解と知識をもった医師が多く育ち、医療におけるより良い連携がもっと円滑に行われるようになることが期待されます。
これまでの新制度運用から、研修医の偏在化による地域医療への影響、財源確保、研修の質の確保、診療科選別変化(偏り大?)などの問題が指摘されてきており、まだまだ見直しや改善が必要なことは明らかです。わたしも、この制度の立派な理念や高い目標どおりの医師がどんどん育成されると思うほど楽天的ではありませんが、多くの研修医にとって、とりあえず経済的処遇や研修環境、診療科や勤務先選択の自由度が改善され、色々な基礎的診療能力を身につける機会が増えることは好ましいことだと思っています。案の定、一部の地域や病院、診療科、業務への医師(研修医も)偏在が助長され、実質的な医師不足に悩まされる人が増えていて、現場で本当にきついと感じる状況(第一線の当直や救急、専門外や予想外の対応が必要とされる業務をこなしつつ、日常診療や会議、儀式的業務、雑用も当然のこととして任せられる)にある医師に限って忙しく、交代要員不足で休みも取れず、それを担う人はますます減少しているので、悪循環に陥るのも当然でしょう。医療現場での努力の成果や行政による医療改革はなお不十分で、青森県でもそのマイナス面が地域医療を担う人々やユーザーらの身にふりかかり続けることは明々白々です。「新制度は負担ばかり増えて、良いことがないのでやめてしまえ。」という反発の声が当初からあり、当院でも大きな負担を感じつつ研修医を受け入れてきました。以前と同様、精神科に興味のある研修医や精神科研修が大切であるという研修医はたくさんいるのですが、たいていは第2、第3志望で、精神科を専門科として選ぶ人は皆無で、指導方法などを反省しつつ戸惑いと無力感も感じ、「県中病や青市病で研修するような人達には、もともと精神科を目指す人がいないのだ。」と合理化の心理機制を働かざるをえませんでした。
しかし、最近の研修医や医学生を観察していると、以前よりもかなり明確に大学が医師国家試験合格率維持やもっと現実的な医師育成目的の、入学直後からの厳格でこまやかなカリキュラム運用、きまじめで過保護的ともいえる教育、指導プログラムを提示し実行するようになり、それに新制度による変化が加わったため、医学部進学や医師への適正に乏しい人、「成績だけで医学部に入学した人」が減り、適応できそうにない人は早めに挫折し、多くの医学生は現代の医学部教育や新制度に適応するような生活を送り、より良き医師になろうとする姿勢が強いと感じます。もちろん、このことによって戸惑いや迷惑を感じる若くない医師もいて、何とか新制度時代に適応しようとしているわたしもその一人ですが、この頃は「新制度なんかやめてしまえ。」とあまり思わなくなり、突発的な過剰服薬やリストカットの患者などのプライマリーケア診療について、東青地区の若い救急当直医が快く(?)対応してくれ、合併症患者の診療も総合病院が快く(? )引き受けてくれることが多くなり、救急隊や警察官らとの確執画面もやや減ったように感じています。もちろん個々の医師によりますが、これは単に当院で研修したことのある医師が配慮(遠慮)して受容してくれるからなのでしょうか。あるいは新研修制度の理念どおり、プライマリーケアにおける当然の対応ができているからなのでしょうか。たとえ、前者ゆえであったとしても、わたしはこれまで研修医を受け入れてきた賜物であると考え、今後もっと素晴らしい地域医療実現のために、研修協力を続けていくつもりになっています。
(初出:青森県医師会報 第581号/平成23年10月)




